欠乏と倦怠の間を往復する

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人生とは欠乏と倦怠の間を往復するものだとショーペンハウアーは言ったらしい。まさにその通りだと思う。人間が動く原動力は本能、もっと具体的に言えば、欲望だし、その欲望を満たすために、すなわち欠乏を埋めるために動き、それが満たされると今度は倦怠を感じて動きが止まる。人によってかかる時間は異なるだろうが、しばらくするとまた何かに欠乏を感じ、それを満たそうと動き出しては、いずれ倦怠の時を迎える。

ずっとこれを繰り返しているのだ。人というのは。

人生は苦痛そのものだ。これはショーペンハウアー以外にも多くの哲学者が口にした言葉のように思う。もちろん自分も大いに同意する。

人生が苦痛なのは欲望があるからで、欲望を満たそうとする過程で、上手くいかないと苦痛を味わう。だが、これだけじゃない。欲望が満たされたら満たされたで、今度は倦怠という苦痛に直面する。

一体、どうしろと?

夢が、欲望が叶っても叶わなくても結局苦痛に行き着くのではないか。

・・・

そういうことだ。

人生は苦痛そのものであると最初に言ったのもそのためだ。

この避けられない宿命のような苦痛から逃れるために人類は様々なことをやってきたわけだけど、その代表的なことが宗教かな。そのほかに哲学もある。

要は何かを信じることで苦痛を紛らわす。または悟りや気付きを通して苦痛の本質を理解した気になって苦痛をやわらげようとする。まあ、こんな感じかな。

こんな一見とてもダルそうな努力を死ぬまで続けないといけないなんて地獄そのものと言える。

だから「そんなに悩むな、好きなことやって生きろ」「人生楽しんだもん勝ち」「考えても無駄だ」「勉強しすぎて多くのことを知りすぎても良いことはない」などの諺というか格言みたいなのが世の中にはたくさん存在する。

いろんなことを考え、いろんなことを経験してみても、結局は上で挙げたような格言っぽい結論に行き着くのである。

こんなことダラダラと並べ立てても何も解決しないし何の役にも立たないが、少なくとも複雑な頭の中が少し軽くなったような気がする。

でもここにきて最近やっぱり大事だと思うのは、色々「新しいことをやってみる」こと以外は人生に答えなんてないということかな。

所詮は欠乏と倦怠の間を往復することには変わらないが、現状に不満があって変えたいという気持ちがあるというのはまだやる気があるということだし、色々試す以外自分にできることは何もないと分かれば、とことんやってみるしかないかな。

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